八ケ岳の山名由来

虎姫新道のこと

阿弥陀岳から御古屋尾根を下り御小屋山から舟山十字路に向かう時、注意を要するポイントに虎姫新道と言うのがある。御小屋尾根から広河原林道、舟山十字路へ向かうには地図に虎尾神社と記載のある尾根へトラバースする道だ。確か私が行者小屋、小屋番だった当事、知人がこの辺のガイドブック作成をしていた際の略図作成の折だったと思うが、「御小屋尾根の下のほうに虎尾神社というのがあるんだが、これがどっから出てきた名前かわかわからないんで、尾根からこの間の名称を虎姫新道にしとこうと思うが、おまえらなんかここらの名前聞いたことあるか?」という相談を受けたことがあった。当時の私には地元の山岳信仰などわかる由も無く、普段から登山道整備などをしている地元の山岳会などで通用している名称が一般化するのがとうぜんなんじゃないか?と感想を述べたのを思い出した。確か原村の先輩、大河原ヒュッテの故田中光彦氏だったように思う。 長く諏訪地区遭対協の隊長を務めておられたが、私にとっては原村には希少な山というよりはどちらかといえば酒飲みで世話になった優しい先輩だった。

ちなみに阿弥陀岳から下って御小屋尾根上の虎姫新道ジャンクションを直進すると諏訪大社御柱切り出しの際に祭場となる御小屋神社がすえられた社有林にでる。このあたりの感じが中央稜出口あたりと気配が似ていて阿弥陀岳から吹雪で中央稜に入りそこなって御小屋尾根を下った時など、道が埋まるほどの積雪があれば、特にその辺りと勘違いしやすく、間違い易いポイントかなと思う。虎姫新道ジャンクション付近は、直進する美濃戸口方面への塚道への目印も多いので、気配だけじゃなくて地図と高度計でナビゲーションするべきところだ。塚道というのはこの地域の財産区の境界線で毎年、地権者の人たちによって毎年区界改めという巡回を行い、目印の杭を打って回っている道のことだ。

そういえば話は唐突に変わってしまうけれど、御小屋山頂上付近にある巨大な塚からは美濃戸へ向かって下る塚道がある。御小屋尾根は地図上では御小屋山先の分岐で美濃戸口か舟山十字路に下る道に分かれるが、赤岳山荘に車を置いた場合など、この塚道を下山に利用すると便利になる。この事を紹介した2人の先輩の名前にちなんで池守新道と呼ばれている。

さらに話は外れてしまうけれど、というよりもはや35年ほど前のことになるが、思い起こせば、登山を覚えて数年目の10代だった私は当時赤岳鉱泉小屋番だった山の師匠と、学林(現太陽館周辺)から阿弥陀岳南稜を目指したことがあった。当時の学林~舟山十字路への道はまず、登山道といえるほどの道ではないところを進む。目印は一杯あるのだがどういうわけか南稜そのものすら見つからない。走行するうちに、なにやら石碑の一杯あるところを超えてさらに徘徊し、予定とは違う原野の中でビバークして翌日は天気も悪いので敗退となった。 その時の私はといえば地図すら持たず、コース概略の予備知識も阿弥陀岳頂上から見てあの辺からこう来てこうだな、とめぼしを付けていた程度だった。あの時は、この虎姫新道下のコースを逆行し、さらに上部に向かって道をはずしたことになるのだろう。

赤岳開山の時代

そんなことをあれこれ思い出すうちに、なんとなく縁を感じ、先日、虎尾神社が何なのかを見たくなって現地を訪れてみた。登山道をほんの少し外れると石神群とやや奥に「赤岳開祖大教正生力彦神」の巨大な石碑。赤岳開祖? 既に道もあり道などないバリエーションルートを普通に遊び場にしている私たち現代人には、この位の山なら誰だって大昔から登っているような気がしていた。これはこの山に親しんだ山の先人たちの思し召しか?という気分になって虎尾神社の名称由来なども含めて調べてみることにした。

ということで、結局何をしたかというと地元図書館でこの地域の山岳信仰の歴史について、原村史、富士見町史、小淵沢町史、諏訪市史、茅野市史、槻木区史等から調べてみた。

まずはヘリでも運べないであろう虎尾神社の巨大な石碑。これは赤岳南口開山の行者海山坊の神号碑とのこと。 ―海山坊富田兼明行者は泉野槻木区の修験道行者。安政2年(1855年)阿弥陀岳を経て赤岳に登る赤岳山南口を開山した。―とある。

赤岳開祖ならあの場所の神社は赤岳神社前宮とか赤岳山神社前宮でよさそうなものではないか? それに、阿弥陀岳に登る御小屋尾根なのに何故阿弥陀岳開祖じゃないのか?という疑問が生じる。これは当時、既に赤岳神社、赤岳神社里宮があり、赤岳に登山する信者による赤岳講が既に存在していたということのようだ。新道を開いた開祖とはいうものの、これ以前の開山との兼ね合いで前宮神社には出来なかったのかと思われる。既に赤岳講の先達として多くの信者を持っていた行者として新たな参道を開いたということだろう。

史料からはくだんの虎尾神社という名称は一切出てこない。その他の石碑に記されていた銘は虫倉神社、虫倉山虎尾明神、御岳、第六天、等など、ということなので、これらを奉納した行者が修行した虫倉山等での師の神号とか何がしかゆかりの神を勧請したのではないだろうか?海山坊本人が奉納したものなら、海山坊は諏訪城下成就院に修行した、とあるので、この成就院での師が虫倉山で修行した虎尾行者という名前だったということもあるかもしれない?ちなみに海山坊の住んでいた槻木区の入口には修験道を知らない私たちには何故ここ八ケ岳の里に?と思われる大きな御岳大権現の碑がある。御岳は全国の修験道行者が修行を積む聖地で修験道の一流を作ったとされている。

これらの史料を読み進む中で特に気になった記述が、槻木区史にある ―東城作名行者(東城作衛門)は木曽の御岳山で修行を重ね、天明8年(1788年)八ケ岳の主峰に登山して赤岳山と号した。翼寛政元年(1789年)地蔵尾根を通って赤岳へ登る道を開山した。2殿作った石祠のうち一殿は赤岳山頂に一殿は下槻木家日向に祀り赤岳神社里宮とした。― というもの。なんと、赤岳という名前は江戸時代後期の修験道行者作名によって命名された、ということらしい。また ―末社として峰ヶ岳社、微石社を置いた― とある。峰ケ岳の祭神は日本武尊ということでこの石碑は北峰にあったかな? で、微石社の祭神は大己貴命だが、ショルダーか竜頭峰にあっただろうか? 確か竜頭峰の社は佐久側を見ていたのでたぶん私が調べていない臼田、高根辺りの村の社かもしれない。

私たち普通に登山する現代人は「赤岳は赤いから赤岳っていうんだよ。」 「ああ、そうなの。」 で、済んでしまう。しかし、よく考えてみると赤岳が赤く見えるのはせいぜい行者小屋あたりまで登ってからじゃないだろうか?赤岳という名前は実際に山を歩きそこに登頂する都合の為に付けられた名前だと思う。夕日に赤く染まるのは写真にすれば何でも一緒だろう

虎姫新道という名前は私たち登山者の便宜の為、登山道の要所についた呼び名に過ぎない。しかし、虎尾神社と呼ばれる場所があり、これが赤岳南口開山の修験道行者海山坊ゆかりの地であることは間違いない。だが、地図記載の虎尾神社という神社が存在したかどうか、なぜ虎尾なのかは結局わからない。地図作成時の作者の思いつきでこうなったのではないだろうか。つまりこれが田中隊長が言っていたよくわからない虎尾ということだった。

私は八ヶ岳山麓の村、原村に20年ほど前に移り住み、親や年寄りから開拓史など伝え聞くような機会もないのだが、八ケ岳山麓の村の辻々には何らかの石碑郡がやたらとある。何らかの思惑を持った信者の思いで折々に随時奉納された石碑であって、その石碑の神名でその辻の地名が決まるようなものでは無いようである。かつて、横岳のある峰に大権現の石碑があることによって地図にその峰を大権現と記されたことがあった。しかしそこは現在一般的に石尊峰と呼ばれており、山麓にいくつかあったいずれかの八ヶ岳講や個人の発願であちこちの山頂に石碑が奉納されているとしても、山の地名がそれと決まるものでもない、ということに通じると思う。

明治維新と山岳信仰

海山坊はそもそも仏教と神道とが習合した修験道行者であった。槻木区史に富田家は槻木新田開拓以前から代々法印を継承してきたとあるからこの家系は仏門の師であったはずである。赤岳開山の折には赤岳山大神という青銅製御尊像を勧進したとある。しかしこれは盗難にあったという。何かの資料に写真が残っていたように思うがなんの姿だったか覚えていない。ちなみに私の知っている古い赤岳神社の神様は不動明王だったけど・・・。そもそも山の神様が人格像で祭られることは少ないようだから、不動明王が山祠をまもっていたのかな?明治維新による日本の宗教改革の時期に当たる訳だが、廃仏毀釈の混乱期に蹴り落とされなかっただけでも良かったんじゃないかと思う。山に置かれるのは通常神社であるが、諏訪大社の社有林、御小屋山から阿弥陀岳という仏教丸出しの名前の山の登山道を開いたということ。大教正という神道による庶民教化の為の最高位を受けているようだが、修験道自体その後に明治政府によって一時廃止されたという異常な事態もある。本地垂迹や権現信仰も禁止とか。諏訪大社に至っては神宮寺の五重の塔他が取り壊されている。まさに、明治維新の悪政、神仏分離、廃仏毀釈に翻弄された紆余曲折の中の存在だったのではないかと思う。

しかし、赤岳山神社としては明治22年に無格社に列格し、当時は里宮120戸、奥宮194戸という多くの信徒があったという。さらに中道の行者真明によっても里宮が開かれ赤岳講は発展し3つの流れがあったという。信仰登山というのは現代人の印象としては胡散臭いが、江戸時代は藩主の許可がなければ登山はおろか旅行も出来なかったという時代背景を前提に考えないと理解できないものだと思う。八ケ岳は信仰の山と言っても残念ながら熊野、御岳、富士、白山、出羽のような全国から講が集まる聖地にはならなかったが、赤岳講の全盛期は作明による開山から海山坊の活躍したであろう江戸時代後期にあったのではないだろうか。


八ヶ岳の山々の山名について

それなら、ということで今度は山名由来についての文献を調べてみた。といっても前出小淵沢町史の八ケ岳信仰の章が史料を簡潔に連ねて提供してくれている。なので、赤岳という山名についての結論を先に言うと作名行者による命名以前の文献に赤岳の表記は見られない。

江戸期の諏訪高島藩士による観光案内?『すわかのこ』宝暦六年(1756年)には
八簡山、八岐山 地蔵ケ岳、虚空蔵ケ岳磨磐山共云、擬宝珠ケ岳、薬師岳、権現岳、阿弥陀ケ岳、編笠ケ岳、中ニモ至リテ高シ斎河原ケ岳 とある。諏訪地域から見た八ケ岳であれば、天狗岳、硫黄岳、奥の院、日の岳、赤岳、阿弥陀岳、旭岳、権現岳、西岳、編笠山がこれに対応するはず。

また、『八ケ岳絵図』(長野県富士見町乙事区共有)では権現岳、薬師岳、阿弥陀岳、擬宝石岳、編笠岳、地蔵岳、虚空蔵岳、西岳となる。
ただし、個々の山の名前が同じでもそれを見る土地によって示すものが違っていたようだ。

甲斐の国の長坂、大泉などでも江戸期以前から山岳信仰は盛んであったが、甲斐では八ケ岳というもの自体が権現岳周辺であり、赤岳を毛無岳、磨巖山などといい、権現、旭、ギボシを薬師、檜峰、阿弥陀等と呼んでいた。小岳、麻姑岩、風の三郎ケ岳など諏訪側では見られない山名もある。

地域住民による地域それぞれの呼称であれば情報網の曖昧なその当時に山名同定は不可能であり、現代においてそれらの史料を検証してもそれぞれの部落や地域で個々の呼称があったようだ。としか言えないだろう。

どの八峰を持って八ケ岳か?の件に関して私は、「どっから見ても8つ位の山に見える山の塊だから八ケ岳なんじゃない?」と答えていたけれど多分それでいいのだと思う

『すわかのこ』における八簡山、八岐山にみるように八ケ岳という名称にも地域差がある。
甲斐地域の八嶽という表記が八ケ岳呼称の起源ではないだろうか?諏訪藩では霊鷲山、東岳などと呼ばれていたようである。霊鷲山というのはインド仏教の聖地。平安期の豪族による荘園開発以降江戸時代の新田開発まで、諏訪においては諏訪信仰、御射山信仰によって八ケ岳山麓のほとんどが御狩野、神野として踏み入ることが出来ない神域であった。山に至っては神の座、霊鷲山であり踏み入り汚すことはありえなかったとされている。
ただ、諏訪氏は武田の進攻を受け従属したので神野の奥地に信玄棒道だの信玄の隠し湯だのがあることは内緒にしておくということだろうか。

御小屋山の下に諏訪大社の御小屋神社が祀られたのが天正十二年(1584年)といわれているので、美濃戸から茅野への御柱道はこの頃から出来ていったのだろう。このような御狩野の奥山から神となる御神木を引き出すというのだから神聖な地であったはずだ。御狩野の神野であった原村周辺の新田開発が始まるのは江戸時代に入った慶長15年(1610年)である。御柱は7年ごとと時間が開くし、水路を引かなければ農地として開拓も不可能な土地であった。この御狩野地域開放の開拓とほぼ符合するのではないだろうか。諏訪側から八ヶ岳の山に入りだすのはそれ以降という事になる。

里から見て誰もが同じ山名で呼ぶ独立峰と違う八ケ岳のような連山の特性かとは思うけれども、赤岳のように開山した行者が山名をつけるというのは稀だ。開山者が名前を残すというのも江戸時代後期以降の登山の困難性の高い山岳の開山だったからかも知れない。当時の講では里の行屋で数日の精進修行をして身を清めた上で行者の先導で登山する、というのが修験道による信仰登山だったようだ。山名の赤岳については開山の作明行者のほかにも修験道行者は弟子も含めてあちこちの集落にいたようなので、江戸時代中期以降この土地の新田開拓が落ち着いた頃には、これら行者の間で赤岳と呼び慣らされていただろうと思う。いずれにせよこのときに赤岳という山名が確定し、地蔵岳、虚空蔵岳だった行者小屋周辺の横岳、硫黄岳などの名称も実際に現地を歩く講の人たちの中で定着していったということだろう。かねてから思っていた大同心という名前、なんで江戸時代なんだろう?と思っていた疑問も解決した気がする。漢字の伝来より古くからフジであった富士山のような独立峰では無い場合、実際に歩かなければ、複雑な地形の山の地名は確定しにくいものだと思う。

甲斐の国から見た八ヶ岳

甲斐の国での権現岳開山は早かったようだ。甲州から見れば霊峰富士に対峙する権現岳である。八ケ岳の由来でよく語られる天孫降臨神話の大山祇神の娘、木花之開耶姫命を富士山、磐長姫命が八ケ岳に、というのも甲州から見た環境での話ではないだろうか。

甲斐の武人達は鬼門の守護神として権現岳(檜峰、薬師岳)に八雷神を祀った。開山時期は不明というが山祠は檜峰神社と称する。檜峰神社の里宮はなぜか権現岳と縁を感じない御坂山塊にある。甲府盆地を隔てて対岸ではあるし、釈迦岳や神坐山といった霊場を思わせる山々に囲まれた土地なので鬼門の恐れや穢れを遠ざけ鎮めるという信仰の形なのかもしれない。八雷神を祀ったこの檜峰神社の由来は古く三代実録に貞観10年(868年)とある。古来より諏訪信仰が厚く神官による統治に近かった諏訪に対し、豪族による武士団の形成も早く霊峰富士を擁する甲州にも役の行者以降の修験道の定着が早かったことは容易に想像がつく。

また観音平に八ケ岳神社、大泉に八嶽神社、天女山付近に八ケ岳神社前宮社などがあり、諏訪側が開山で賑わった江戸時代後期の登山ブーム?では、権現岳を檜峰ではなく八嶽として登拝していたようである。八ケ岳神社前宮社は冬季でも庶民が参拝できるよう作られたというから、いわゆる修験道とは違う庶民の信仰を形成していたものと思われる。大泉の八嶽神社は諏訪神社を合祀したこともあるが八ケ岳信仰を起源とする社には珍しく、現在でも地域の産土社としてお神楽なども催され七五三などで活躍しているようである。

権現岳頂上からは鎌倉末期から室町初期とされる薙鎌、北宋銭が出土しているという。その頃(1300~1600年頃?)には権現に登拝する講も武田武士団と共に栄えていたのだろうか。薙鎌は諏訪大社の神具だから諏訪人が甲斐から登拝し奉納したとも考えられる。もっとも武田氏は諏訪信仰にも厚く御射山祭の狩猟にも参加していたというから別の思惑の結果かもしれない。出土物が奉納されたものである以上、その奉納者の思惑という事情がすべてで、奉納品の製造年がその神社の誕生を示すものでは無いと思う。

しかし、甲斐の国の山岳信仰の主流、富士講に関しては701年に建造された役の行者ゆかりの円楽寺が桓武天皇の( 781~806)には甲斐修験道の中心になって栄えていた、ということなので古い歴史があることは間違いない。甲斐の国一の宮浅間神社は貞観七年(865)富士の噴火を鎮めるべく勅命により駿河、甲斐の両国に祀られた。一説にはこれは河口湖の浅間神社だといわれるが、前宮、里宮として、ほぼ同時に出来たとしても良いのではないだろうか。ちなみにアサマという言葉もフジ同様、漢字伝来前から火山の神を示す言葉だという。三代実録の檜峰神はこの直後に従五位下を受けている。 しかしその後の、延喜式神名帳には記載されなかった。
これは現在御坂にある檜峰神社が明治維新以前までは神座山薬王権現という名称であり山祠はあったが、諏訪の守屋山のように神座山自体が御神体であったものを指して檜峰神としていたからではないだろうか。調査中に神座山薬王権現の祭神は大日如来という一文を見た。境内には確かに蓮華座の如来像が廃仏希釈が香るご神体ではないであろう状態で置いてあった。名前的に考えるならば薬王菩薩か薬師如来がご神体じゃないのかな、とは思うのだけれど本来の御神体は神座山、釈迦岳そのものなのであろう。甲斐武田家は鎌倉幕府の御家人であったし、御坂の地は鎌倉街道の要地。富士川筋の身延同様、当時最先端の仏教伝来の先進普及地でもあった。神仏混沌の時代であり、式外社とされた理由として神職が僧侶であった可能性も高い。

神座山(現在の大栃山、釈迦が岳)は眼下に甲斐の平を一望し、背後に噴煙を上げる富士山を望む立地にあり、甲斐の国に降り立つ神の座にふさわしい。なお、三代実録の貞観時代は河口湖付近まで溶岩流が来たという富士山の噴火や播磨の大地震、津波など全国的な天変地異多発の飢饉時代で、祭事の長としての朝廷もネコの手も借りたいというような勢いで、全国に官位を配りまくっていたように見受けられる。

謎が深まる檜峰神社

神座山は武田家臣団の祭官となる武藤家の領地だった。この武藤家は武田家滅亡後、徳川家康と北条氏との合戦で徳川方に付き家康による神座山神主あての朱印状によって広大な社地を安堵拝領している。このとき風水好きの家康におもねって甲斐の国、鬼門の権現岳に八雷神を檜峰神社として祭ったと考えると面白いがどうだろう。

しかし、通説ではこの御坂の土地に檜峰神社という名称が出来たのは神社登録をした明治維新以降なのである。ちなみに維新当時の檜峰神社の神職は武藤外記であり神仏分離にかかわったかは不明だが高名な尊王攘夷の国学者であった。檜峰神社は仏法僧と鳴く鳥が実はコノハズクであったことが発見された場所だそうだ。明治維新の国学の先生がどこか愛嬌のある妖怪じみた姿のコノハズクに「仏法僧、仏法僧」といわれていた。ぶっぷっ、失礼。これは日本文化の崩壊を見るような明治維新時の修験道を通じ八ケ岳信仰を調べる中で、唯一なんとなく楽しい逸話であった。

話は権現岳の檜峰神社だが、では、これも明治維新以降に置かれたのか? というとそうでもない。かつて檜峰神社里宮が現大泉の谷戸城跡にあり、現在は逸見神社境内に移されてあるという。中腹に前宮もあったが流出して今は無いというが、これは庶民の信仰対象だった前出の八嶽神社前宮のことではないだろうか。谷戸城は甲斐源氏の基となる常陸那珂武田郷から平安期に配流された源義清の長男黒源太逸見清光の居城。逸見神社もこの源氏系の鎮守であるから逸見氏によって檜峰神社が権現岳の頂上に置かれた可能性も高い。
だがそれも残念ながら逸見氏が配流されたのが1100年代であり三代実録にある868年の従五位下授受には間に合っていない。現在逸見神社にある里宮は谷戸の町屋衆の建造のようなので権現岳信仰は当時もあったと考えられる。谷戸城の落城は武田氏滅亡後の徳川北条戦で北条方の城となったためである。そしてこの地ではこれ以降江戸期には権現岳を檜峰としては登拝していないようだ。甲斐における修験道円楽寺富士講の成立が700年代ということを考えれば逸見氏以前の豪族による開山というのが有力な推論だ。 で、あるならばもっと立派な里宮を残しそうにも思う。檜峰の神として従五位下を受けたのはだれなのか?
これらを纏めると推測されるひとつの結論として、甲斐の権現岳信仰は逸見氏配流以前からあった。しかし、都の最先端仏教を知る源氏の頭領には田舎の地場修験道などどうでもいいものであり、これを庇護せず、いざ鎌倉!だとか大仏建造の普請などで、庶民は武家の発展に伴う重税や生活に追われ、檜峰としての権現岳信仰は廃れたということではないだろうか?
これもまた仮定だが御坂の武藤家が逸見家以前の谷戸地域の豪族だったが逸見氏の配流で武藤氏と共に檜峰神社が御坂に移動した。なら、ありえるかもしれない。
で、ないならば御坂の檜峰神社は権現岳とは無関係という方が納得が行く。または鎌倉期以前に御坂に檜峰と呼ばれた地域があったか? 明治の宗教改革による後付けっぽい檜峰神社認定も歴史解明の障壁になっているが、江戸期に大泉からの権現岳も御坂の神座山も檜峰と呼ばれていた形跡は非常に薄いのである。もちろん、明治維新の御坂檜峰神社開山で山祠を権現岳に据えたとしても、諏訪側の海山坊時代とも符合するので帳尻は合ってしまうが、それじゃあんまりだし、江戸時代後期の修験道隆盛期の話題として、これに関する伝承が残るはずだろうと思う。

結局、檜峰神社調査は紆余曲折ばかりで権現岳の初登頂と関係があるかどうかもわからかった。野鳥の遊び場になっている原村の家の庭にも、コノハズクはさすがによっても来ないが、アマガエルが奇矯な声で笑っている。

2012年 初夏 追記
田部井さんの企画で
福島で被災した高校生と富士宮の高校生による富士登山
という登山イベントに参加の折
寄り道して御坂の檜峰神社をたずねた。広大な社有林は驚きだ。
本殿が工事中だった。地域での信仰も厚いのだろう。
権現岳や修験道とのゆかりは不明。薬王名水がうまい。

アルパインガイド 青木昭司