安曇野 穂高神社
豊葦原中津国の中央に嶺高く聳える山里がありここに瑞穂の国を築かんと大和朝廷は伊弉諾尊より生じた海神、綿津見神の子、宇都志日金拆命を祖神とする安曇の連に東夷平定を命じた。 初期の大和朝廷の東征は戦であるより弥生文化の伝搬つまり鉄器や土器、農耕、官位采配、税制や権威、宗教の浸透であることも多い。 この拓かれた瑞穂の地は後に安曇野と呼ばれる。 安曇野の西方の高き嶺々のさらに奥には里から見えない人跡未踏の岳の連なりがある。 これを瑞穂の国の民は神々の高天としていつしかこの隠された連山を穂高と呼ぶようになった。 この間に安曇族によって祀られた祖神、宇都志日金拆命はこの安曇野の地に於いて穂高見の神の名を持ち新撰姓氏録815年に安曇の連の祖として記され、延喜式神名帳927年に穂高神社として明神大社とされた。 また日本三代実録859年に神名、宝宅神と記されるが安曇族は801年大和朝廷の蝦夷平定の時に没落しているので何らかの齟齬があったかと思われる。 これをもって信濃の安曇族は謎の中に消えたが安曇野には瑞穂の地と菊の御紋を持つ穂高神社が残った。 穂高の地名を神名との時系列で推論し整理してみた。
2014年7月28日 西穂から槍の縦走中のジャンの登りより 明神岳上に八龍の彩雲の瑞兆
明神 奥宮
この安曇野を潤す流れに梓弓を多く産する事から名付けられた梓川が在る。 この発する処が安曇野西方の常念岳、蝶が岳に連なる峰々とその奥の槍穂高連峰の狭間上高地である。 この上高地の中心に江戸期の松本藩杣から霊湖、鏡池と呼ばれる清麗の池が在り穂高神社は水に因む穂高見の神が高天より降臨する地としてこの鏡池に穂高神社は奥宮を造営した。 この穂高明神社奥宮の造営が神降地、明神池、明神岳の山名地名の由来となる。 地名として明神となるのは朝廷による社格である明神社がその地に造営されたとうい事実からに他ならない。 この穂高神社奥宮造営は江戸時代後期の元禄から文政に記録が在り松本藩杣の村々によって為された。 江戸期の穂高神社は安曇族の氏神であるよりも安曇野という地の神、穂高という山の自然神の位置づけを背景に信濃の国三之宮として信仰を集めていたと思われる。 ちなみに奥宮由緒書に在る松本藩の信府統記に記される穂高神社の祭神皇御孫命は安曇族ではない瓊瓊杵尊である。 この江戸末期の豊饒の時はすぐに明治へと移行した。 明神池の社地拝領は明治31年であるがこの間、明治の宗教弾圧と廃仏希釈の文明破壊が穂高神社をも煩わせただろうことは想像に難くないが、日本の史記、記紀にありがちな神代から人代への移行には後付けによる時系列の破綻がともないがちなのは確かなようである。 明神岳以外についての穂高連峰における個々の山名を示す奥穂高岳、北穂高岳、西穂高岳、前穂高岳、涸沢岳、ジャンダルム等の命名は統一される状況に登山としての開拓期と同時期の測量図作成があり推定をさしはさむ余地も無いほど新しい時代の命名として知られている。
2014年7月30日 奥宮参詣 明神池は拝殿の向こうにたたずむ霊域
奥穂高岳 嶺宮
さて、さらに時を新たにするが今年遷宮された穂高神社の嶺宮とは何だろう。 安曇族の始祖神を御祭神として祀ったはずの穂高神社の御神体が拝殿や村人から見えない自然神である穂高岳である必要はないし御神体自体に鎮守社を置くというのは理解できない。 霊山が登拝されるのは雨乞いや氏神の方角厄払いの鎮守神への祈願祈祷とか神仏習合の山岳修験道においてである。 修験であるならば山自体である地主神には播隆の槍ヶ岳開山に見られるように大日如来、薬師如来、阿弥陀如来、不動明王などが垂迹神として置かれ相対する里宮の行屋で禊をしてから信仰登拝されるということになるのが通例だが、純粋に地勢上の人跡未踏の神々の高天であった穂高岳にはその山岳修験の歴史は存在しない。 自然神である穂高岳が御神体であり得るのは穂高神社奥宮の造営以降だろう。 山が神だから祀るというより山の利用や開発によって人間と信仰が一緒に山に登って来たように思える。
奥宮 由緒書
重太郎の頂上社
奥穂高岳頂上には日本の近代登山発祥に貢献した奥飛騨のガイド先達今田重太郎が作った有名な2メートル越えのケルンと呼ばれる台座と山祠が有った。 大正十三年この岳の稜線上に登山者の命小屋である穂高小屋を始めた重太郎さんは昭和余年に自然の猛威に対し『岳の神様』の加護を願う事と登山者が山での恩恵を山頂で感謝する社が必要だろうという発心によって、里と山の境に山民によって祀られる『山の神』のような、登山者の為の『岳の神』として、山頂に重厚な台座を築いたうえで山祠を奉納した。 その後雷被害などで幾度か作り変えられてきたが古の神々の高天である奥穂高岳の祭神としてふさわしく思われ勧請されたのだろうか、社には伊弉諾神、伊邪那美神の神号碑が祀られていたと聞く。 この奥穂高岳山頂への穂高神社遷宮にあたり、私たち岳人がこれまで親しんできた感謝の場、重太郎さんがよく語られたところの『岳の神様』がそこに在るという事実は変わりようも無く、この嶺宮遷宮とともに『岳の神様』も合祀されたものと感じている。
先代? 先々代? 雷も多いし、もっとかな? の穂高岳 岳の神様の御社と台座の全貌
嶺宮 遷宮
現在、穂高岳の開山祭や閉山祭、慰霊祭を執り行って来ている穂高神社奥宮の神職によって自然神である『岳の神』が祀られる事は喜ばれるべきことである。 いつのころからか山頂の脇に鎮座されていた穂高神社の山祠は山頂への新造遷宮によって、今日の登山者の立場に立った安全祈願と感謝の場として頂上に鎮座し、その名も『日本アルプス総鎮守』としてリニューアルされた。 実はこれを見た時なんか変な肩書? と訝しんだものだが、数ある山々の総鎮守という意味ではなく、登山者族の氏神様? みたいな意味かという事で理解した。 さらに登山者の記念写真の為のランドマークとしてもふさわしい穂高造といわれる美しい姿の石祠を奥穂高岳頂上に得たのだということを私たち登山者は歓迎することとして、穂高岳とこの岳の自然への畏敬の思いを新たにするものである。
初参拝後の記念写真 え?アルプス? あ、僕もアルパインガイドの肩書だ・・・
今年の山は天候不順で太刀打ち不能の豪雨や山から離れようとしない濃霧が続き思わしくない。 山の信仰には雨乞いがあっても好天を祈願するというのはあまり聞かないが、日本アルプス総鎮守である穂高神社奥宮や嶺宮への登拝は本筋である登山の安全祈願や慰霊と一緒に好天祈願とか天候不順解消とかの登山全般についての御利益にも期待したい。
これはもはや神頼みしかないかと・・・
二拝二拍子一拝
瑞穂の国安曇野を見下ろす前山から高天の穂高岳 今では吾等が登山道も見える
2014年8月25日
では、次の山行にも好天を期待して…
アルパインガイド青兵衛