八ヶ岳南西麓に位置する高原地帯の農村、原村の標高1000メートル付近に暮らし始めて25年ほどになる。 長野山梨県境となる高原地帯で富士見町と隣接し、甲府盆地に向かい笛吹川、富士川となる釜無川と伊那谷から天竜川に注ぐ諏訪湖の源流域で、最も広くなだらかな分水の峠を形成する高原となっている。 この原村、富士見町を囲むやまなみは南から東に壁のように連なる八ヶ岳、西には南アルプスの甲斐駒ケ岳が両翼に鳳凰三山と鋸岳を従え、信州側には冬は富士見パノラマスキー場の灯りが目立つ入笠山から諏訪の守屋山への丘陵へと続いている。
富士見峠を分水の峠と紹介したけれど、八ヶ岳西山麓における実際の分水は、八ヶ岳の登山者にもなじみの深い赤岳、阿弥陀岳の主稜線から西に延びる御小屋尾根だ。 この顕著な長い尾根の南面、権現岳キレット寄りの立場川は富士川水系、北側の横岳や硫黄岳に発する柳川は天竜川水系ということになる。 蛇足ながら山麓の富士見町、原村の高原の開拓農地は江戸時代中期以降、戦後に至るまで、これらの流れを水源に利用する為に複雑に作られた入り組んだ用水整備によって開拓されている。 ある意味では人間による、現実的分水の歴史が作った高原の開拓地となっている。
山岳写真家の先駆者でもある、田淵行男氏の作品に「浅間 八ヶ岳」という写真集が有るが、若いころ勤めていた穂高岳山荘の図書室で初めてその古い作品と出会ったとき、その時代背景もさることながら、八ヶ岳という山の持つ郷愁の趣深さに感じいったものだ。 この山麓に暮らし、折に触れて見上げる八ヶ岳の風景に、あの写真集に有った写真の撮影ポイントはこの辺かな、と思える場所と出会うことが有り、懐かしさに似た気分を新たにする。 とはいえ、新しい建造物はもちろん、広大な圃場整備された田んぼや畑の中にも電線が張り巡らされている事にはがっかりさせられる。 2020年の東京オリンピックに向けて景観地の電線を地中に埋める計画もあるそうだが、山を臨む農村の電線も日本の風景を末永く楽しむ意味で埋められないものだろうか。
良く晴れた日に中央高速道を走ると、この富士見の峠付近で上り線では富士山、下り線では槍穂高連峰が正面に見えてくる。 地名的には高速バスの富士見バス停、または中央道最高標高点の標識付近にあたる。 上り線の富士山については、ここ以降甲府までずっと正面に鎮座しているけれど、穂高岳については、諏訪湖サービスエリア付近で諏訪と木曽、安曇野を隔てる交通の要所、塩尻峠、塩嶺の山稜によって隠れてしまう。 塩嶺トンネルで峠を越えたみどり湖付近から塩尻辺りまででも穂高岳の上部は見えるのだけれど、山として眺めるには、蝶が岳から連なる前山が大きく、中腹が無い形状となるのでいささか興趣に欠けるように思う。
富士山が見える場所については、日本中の山岳はもちろん、どの町から見えるかも、綿密に検討されているようであるけれど、一方で穂高岳については、里から眺める事の出来る土地は極めて少ない。 奥飛騨の山として知られているので高山市内では高山市美術館、城址公園やアルプス展望公園などが有名ではある。 これらは槍穂高連峰に発する蒲田川から高原川という神通川水系高原川源流の流路が笠ヶ岳や錫杖岳、乗鞍岳をかわして高山方向に向かうごく狭い谷間越しで岳を望む場所に有り、極めて限定的な範囲からの展望台になっている。 実は、穂高岳を望む町を探す合理的方法として、穂高岳から見える夜景の町へ行ってみるという方法が有る。 穂高岳山荘で従業員として過ごした7年間や、この山域でのガイドを通じた30有余年の記憶を辿れば、高山、塩尻、諏訪、上田の夜景が、輝いていた記憶が顕著だけれど、前述した前山との兼ね合いは、高山市や塩尻市の例ように現場へ行ってみない事にはどういう見え方になるのかは判らない。 高山市に関しては最近になって出来た高速道の明かりが夜景の中に顕著なので清見方向の高みにも展望の良い場所が出来ているかもしれない。
残念ながらというか穂高岳から見る原村方面の夜景は、煌々とした諏訪湖周辺とは違い、星空のシルエットとなる八ヶ岳に向かって真っ暗な場所。 原村は観光的にも星空の山村なので、真っ暗なのが当たり前といえばその通りではある。
八ヶ岳のシルエットと言えば、夏の穂高岳稜線の夜にぜひ紹介しておきたい風物詩がもう一つ有る。 正式名称は無いと思うけれど、穂高岳の住人は「稲光」と、現象そのままの名で呼んでいた。 夏山の午後と言えば雷だけれど、穂高から見ると八ヶ岳の東面野辺山方面は特別な雷の名所のようで、ゴロゴロと爆音を発して落ちる普通の雷だけでなく、夕刻から夜に一分間に何発も上下左右に向かって放電し、八ヶ岳の向こうから山並みのシルエットを見せるような光を発する事がたびたび有る。 地面に落ちる雷と違って爆音は必ずしも発していないと思う。 たぶんひとシーズンに5~6回は、見られたと思うが、一般的にはなかなか出会う事も少ないかもしれない。
あえてみようと思うのであれば、穂高岳山荘に根差した映像作家、当事支配人であった神憲明氏の映画穂高岳賛歌や、現在活躍中の宮田八郎氏の映像作品にも残っていたように思う。 現地で実際に見られる機会が有ればそれが最高だと思うけれど、ぜひ映像だけでも参照されることをお勧めする。 この稲光が八ヶ岳山麓からは見えず、何故、穂高方面の稜線からだけ見る事が出来る八ヶ岳の夏の風物誌なのかは謎だけれど、これを見れば八ヶ岳は風神雷神の山だと信じるに足る感動が有るのではないかと思う。 飛騨地方や穂高岳での思い出話になってしまったけれど本稿は、憧憬の岳として穂高岳を眺望する絶好の土地としての原村を紹介しようという目論見で始めている。 穂高岳からの八ヶ岳の展望に覚えのある人に原村の場所を示すには、八ヶ岳連峰の右端に有る崩落地のように見える富士見高原スキー場の手前のすそ野だよ、という事になる。 右手に北岳、甲斐駒、八ヶ岳との間から富士山が見えるだろう。 昼間であれば季節によっては田んぼや花卉栽培のハウスに反射する太陽が眩しく輝いて面白い、みたいなことも多い。
ということで、八ヶ岳南西麓のすそ野から穂高岳を遠く展望する好適地を探索してみよう。 八ヶ岳は南北が20Kmと幅広い。
2000mを越える稜線からであればそのすべての場所が、諏訪湖、塩尻峠、美ヶ原越しに見える、乗鞍岳から白馬岳までの北アルプスと対峙する。 しかし、穂高岳や北アルプスの山容を西面の山麓から望む場所となると、霧ヶ峰から茅野市へと延びる永明寺山の山稜が障壁となる為、北の蓼科、白樺湖寄りの山村からは見ることができない。 古代より諏訪平の中心地だった諏訪湖周辺から、この北山、泉野といった集落を、山浦地方と呼んでいたそうだが、この永明寺山の存在が山浦と呼ばせた所以なのだろう。 この永明寺山と、向き合う西側の諏訪大社の裏山との間を南に寄り諏訪湖越しに塩嶺の低い部分を見通す地域が槍穂高連峰の真正面と対峙する八ヶ岳西麓からの展望の場所という事になる。
具体的な地名を上げるならば、標高1200m~1000m位の高い位置で、ペンション村の有る森林帯から農地の広がりだす上里下~中新田、中域の標高1000m~800mで台地となる村の中心払沢やその下で傾斜地になる室内、柏木、阿久と言った集落辺りかと思う。 いずれも農地なので、晴れた日に車で移動すれば好適地は見つかるが、現地に行って見るという以外の方法は無い。 既に地形的には山麓の農村地域でありながら、諏訪湖やその周辺の市街地を見下ろしている風景というのも面白い。
最近、原村役場下の農道に天空の田園?という展望ポイントの看板ができた。 八ヶ岳側も穂高側も甲斐駒方向もきれいに抜けた農村風景が約束されている。 ただここは、槍穂高連峰の常念岳寄りがちょっと永明寺山に被っている。 つまり、ここより南に寄ると穂高岳の展望にぴったりの場所が有るという事だ。 役場下に戻り郵便局から茅野へ下る道を数100m行くと柏木集落。 柏木信号の少し手前の左手の農地内に東屋とグランドが有る。 東屋の高台からは諏訪湖の向こうに常念岳から槍、南岳、キレット、北穂、奥穂、西穂へと続く稜線が見える。 焼岳に重なるのは霞沢岳だろう。 こうしてみると、夏のガイド時の通勤ルート、塩尻峠から松本、中の湯から上高地と言うコースは随分と紆余曲折しながら向かっている事が解る。 前山となる蝶が岳も槍からキレットを隠さないギリギリの位地に来る。 ここがとりあえず穂高方面を展望する原村でも一番のポイントかもしれない。 この少し上の原中学校のグランドからも槍穂高が良く見えた記憶があるけれど、子供たちの運動会以来10年以上も行っていない。 好展望ではあっても原村の子供たちは穂高岳に何か思い入れは有るのだろうか?
さらにもう少し下ると阿久地域。 高速道路の建設中に発見されたという大規模な縄文遺跡、阿久遺跡で有名な場所だ。 我が家の裏の森もそうなのだけれど、八ヶ岳山麓はどこも縄文遺跡だらけだ。 縄文遺跡は諏訪大社の御狩野だった神野のような、畑や住宅地として開拓されていない場所に発見されることが多いので樹木が多い。 つまり、開けた展望地ではない。 阿久遺跡周辺でも少し農地に外れれば畑越しの穂高岳の展望地も有るけれど、高速の下の縄文遺跡と言われる阿久遺跡は高速道路から穂高を望むときの好適地はこの辺を走っている時だ、としておこう。 さらに下れば茅野市となるが、諏訪湖の八ヶ岳側になる茅野市も穂高岳を望む街だ。 国道からだと最近できた坂室トンネル出口付近から中心街、ちの、宮川地域を過ぎ茅野大橋辺りまでが好展望と言える。
この土地を特徴づける名所として、諏訪大社、御柱祭の木落し坂からも穂高岳の展望は良い。 ただ、あまりにも放送され過ぎる為か、山岳景観を背景とする目立つ場所に広告看板が有り、山の写真を撮るにはとても苦労する。 そこから御柱の曳行コースでもう少し下ると、諏訪大社前宮。 この裏山というか本宮との境になる尾根にある、諏訪湖側の前宮公園からの穂高岳も良い。 付近には古代山城の武居城という山が有り、その中腹に武居畑という居館の遺跡の台地が有るのだがここも良い展望台になっている。 諏訪湖の標高は760m位だが、この辺りになると、市街地からというより、少し左右の山腹に上がった位置からの方が槍穂高連峰が良く見えるようになる。 この辺までが諏訪湖周辺の人里からの穂高岳展望地だろう。
八ヶ岳山麓には縄文遺跡が多く茅野市は縄文の里として広報もしているけれど、諏訪大社下社上社の動乱の舞台にもなったという,
この武居城は戦国時代の山城だ。 その居館のあった武居畑からは縄文と平安時代の遺跡があったそうだ。 諏訪周辺に弥生時代の遺跡や古墳はあまり出て来ていない。 米作向きとは言えない高冷地であったため、水稲耕作の弥生文化と言われる古代文化はあまり大成しないと言う事は有るだろう。 しかし、諏訪大社の奇祭、御柱祭は冬の山から、春に農耕の神を招く祭りと言われる。 狩猟にまつわる神事が遅くまで残った諏訪独自の文化と歴史に何かの要因が有るように思えて興味がわいた。 これはまた、調べてみるとして、縄文人にとっては動物の足跡の残る雪の中の方が狩猟はしやすかったのかな? などとも思うのだが、諏訪の平を一望に見下ろす武居畑の台地で、八ヶ岳と穂高岳の初雪の到来を見比べながら、クルミやドングリを蓄えたであろう、縄文人の生活に思いを馳せる。
さて、遠景で輝く穂高岳から始まった雪の季節は、ようやく、八ヶ岳にもやって来ました。 冬山シーズンの到来です。 今シーズンもより多くの人と、よりたくさんの冬の八ヶ岳の思い出を、里の暮らしの中に持ち帰れたら良いな、と願っております。